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「絶対に使命がある子です」


馬場益代は3歳の時、ポリオ(小児麻痺)を患った。後遺症で両足に麻痺が残った。両親が創価学会に入ってしばらくしてからのことだった。


「今と違ってワクチンがなくて、ポリオで死ぬ子どもがとても多かった時代です。学会の皆さんは私の両親を『ポリオにかかって、生き残ったのよ。絶対に使命がある子です。育てきって、益代ちゃんに使命を果たさせてあげて』と懸命に励ましてくれました」(馬場益代)


日本でポリオが大流行したのは、池田が第三代会長に就いた1960年(昭和35年)、そして翌年のことだった。


「私も克服を真剣に祈った。……1960年には、前年の3倍、全国で5600人以上が感染し、317人が死亡している。バタバタと倒れていく子どもたち。『次はわが子か……』。母親たちは、恐怖におののいた。


当時、有効とされた『生ワクチン』は、日本では使用が認められていなかった。もっとも研究が進んでいたソ連のワクチンを輸入できない状況であった。それどころか、ソ連からの『生ワクチン寄贈』の申し出も、当時の政府(厚生省)からストップがかかった。『まだ、効くかどうかわからない』と。――しかし、その研究(試験)に、また何年もかかるのである。その間に、子どもたちは、次々と倒れていく。各地でデモや陳情、集会が繰り返された。


翌1961年。また、流行期の夏が近づいてきた。このままでは、前の年以上の犠牲者が出ることは明らかだった。流行は続く。ついに母親たちが立ち上がった。『子どもたちに生ワクチンを!』。命をかけた叫びは、全国に広がった。


さまざまな考えや立場、事情は当然あったであろう。ただ一般的に言って、現実に、そこに救いを求めている人々がいる時、かりに、へ理屈や権力、自分たちの威信のために、"薬"を与えない人々がいたとしたら――。そのような権利は、だれ人にもないと私どもは思う。(拍手)


ソ連では、すでに数百万の子どもに『生ワクチン』を使用。小児マヒを克服していた。100%の効果と言われていた。


しかし、当時の反ソ的な政治勢力と、法律(薬事法)をタテにした役所のカベ、また、自社の薬が売れなくなることを恐れる一部の製薬会社の反対などもあったようだ。ソ連のワクチンは、日本の母親たちの手に届かなかった。


広がる国民運動を前に、ついに役所も重い腰を上げた。ソ連の『生ワクチン』を、1000万人分、緊急輸入することを決めたのである。


7月12日。モスクワから空路20時間かかって、待望のワクチンは到着した。


その5日前、7月7日現在で小児マヒ患者は、この年、1418人(死亡94人)。7日には、私の故郷であり、当時住んでいた東京の大田区の多くの地域も、『小児マヒ危険地域』(流行の恐れのある地域)に指定された。


ワクチンの到着後、約1週間で、全国での投与が開始された。その効果はすばらしかった。発病は、文字どおり激減。急カーブを描いて、流行は沈静化していった。


1カ月後には"一人も患者が発生しない"状態になり、東京都の『小児マヒ対策本部』も解散。まさに、目を見張るような『ワクチン』の効果であった。


幼児を持つ母親たちは、胸をなでおろした。感謝してもしきれない気持ちであったにちがいない。……また、もっと早く、ワクチンを輸入していたら、助かった子どもがあまりにもいたことも忘れてはならない」(1991年、フランスでのスピーチ。『池田大作全集』第77巻)

"私は届けると約束したのだ!"


この時、池田はソ連の医師たちの闘いも紹介している。「第二次宗門事件」の渦中だった。日蓮正宗(以下、宗門)は創価学会の「破門」という暴挙に出た。「御本尊の下付」も拒んだ。


日蓮は「御本尊」を「薬」に譬えた。〈大良薬たる南無妙法蓮華経なり〉と語り(御義口伝、御書755㌻、新1052㌻)、佐渡の千日尼宛の手紙には、次のように綴っている。


――この御本尊は、文字は五字、七字であるけれども、三世の諸仏の師であり、一切の女人の成仏の印文です。……御本尊というこの良薬を持つ女性らを、地涌の菩薩が、前後左右に寄り添って立ち、女性が立たれたならば、この大菩薩も立たれます。この女性が道を歩む時は、菩薩もともに道を歩まれます。たとえば、影と身、水と魚、声と響き、月と光のように、この女性の身を守って決して離れることはありません│(妙法曼陀羅供養事、御書1305-6㌻、新1726-8八㌻、趣意)


また「変毒為薬」――毒を変じて薬と為す――という言葉も、学会員になじみ深い。日蓮は〈毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す〉と教えた(新池殿御消息、御書1437㌻、新2059㌻)。


池田が紹介した「ポリオとの闘い」の歴史は、人類のための仏法を、自らの保身の道具にし、人々を圧迫する宗門の非人道性を浮き彫りにしていく。


「ひと口に『一千万人分のワクチン』というが、製造は並大抵のことではない。しかも、それまで『寄贈』さえ拒否していた日本が、突然、『すぐに送れ』である。間に合うかどうか。しかし、ぐずぐずしていたら、子どもたちが危ない。不眠不休の仕事が続いた。


『そんな遠い国の人々のために、どうして』と言う人もいた。『自分の研究が忙しい』と言う人も。無理もなかった。そのうえ、それだけの犠牲をはらってワクチンを作っても、経済的にも、学者としての出世の面でも、プラスになるわけではないのである。


『日本の子どものことなんか関係ない』といえば、それまでであった。『助けたいが物理的に無理だ』と言えば、いくらでも言える状況であった。


しかし、ソ連の研究者たちは言った。『やろう!』と」(前掲全集)

「"われわれには、たくさんの困難がある。また悲惨な状態にあるのが、はるかかなたの国(日本)であることも事実だ。しかし、助けられる可能性があるのだ。その時に、助けようとしないやつは、いないだろう。それでこそ『人間』じゃないか。そこに『人間』の基準があるんじゃないのか" "薬"を必要とする人がいる限り、あらゆる障害を越えて、ともかく"薬"を届けるのが『人間』だ――と。


こうして、研究所では24時間態勢がとられた。スタッフの不眠そして不休の献身的仕事で、ワクチンは完成した」


輸送はトラブル続き。日本の厳しい条件もなんとかクリアした。しかし、ソ連の官僚の壁が立ちはだかった。飛行機の離陸が許可されない。


「すべてのカベを破ったのは、"待っている人がいるのだ! 私は届けると約束したのだ!"という責任者の一念だった。


彼は、規約をタテに、飛行機を飛ばそうとしない役人を、どなりつける。役人は『僕は国家の人間ですから』と、上の言うことを聞いているだけだと告げる。医師は怒る。


『何だと、お前が、国家の"人間"! "人間"だって! お前は"鎖"だよ。君らは皆、ひとつの権力の鎖で結ばれているんだ』


規約や命令機構のために人間がいるのか、人間のために、それらがあるのか。ただ頑ななだけの役人は、"人間"ではなく、人々をがんじがらめに縛る"権力の鎖"の輪の一つにすぎない。だれかが、鎖を切らなければならない――と。


ともあれ、ただ『人道』のために、悪戦苦闘を乗り越え、『ワクチン』は届けられた。"わが子を救いたい!"という母親たちの一念と、"日本の子どもを救いたい!"というソ連の医師の一念が、国家のコンクリートのカベを壊こわした」(同)


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※当記事は『民衆こそ王者 池田大作とその時代』22巻から抜粋をしたものです。


続きが気になった方はこちらもご覧ください。


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【目次】

第1章 ともに苦楽を祈る日日――裏切りの嵐の中で

第2章 彼らは「人間」なのです――世界広布元年①

第3章 私は深く、熱く信じた――世界広布元年②

第4章 信仰の労作業を避けるな――世界広布元年③

第5章 ただ一つの尊い道――世界広布元年④

第6章 一人が立ち上がればよい――世界広布元年⑤

第7章 久遠元初の法を求めて――世界広布元年⑥

第8章 「池田大作はここにいる」――世界広布元年⑦

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