• 政治 経済

"右の霧の中"に消えた自民党――高まる公明党の存在感

  • 公明党

自民党が「右の霧」に消える中、公明党が連立離脱。野党公明党は中道路線の要として、公明党主導の五党協議で政治改革と物価高対応を前へ――日本政治の帰趨を握る存在感を検証する。

(月刊『潮』2025年12月号より転載)

記事のポイント
●公明党が連立を離脱したのは、高市氏が「裏ガネ問題は決着済み」として、裏ガネ議員の萩生田氏を幹事長代行に任命したからだ。
●安倍氏は公明党への配慮を怠らなかった。高市氏も安倍氏のように公明党代表や党幹部との意思疎通に努めるべきだった。
●公明党を中心に五党協議を行うべき。公明党の役割がいまほど重要なときは歴史上ない。同党の決断が日本政治の帰趨を決する。

高市VS小泉はウルトラライトの勝利


大激震が日本政治を襲った。10月10日、公明党が連立政権からの離脱を表明したのだ。1999年10月から26年にわたって続いてきた自民・公明の蜜月関係に、ついにピリオドを打った。経過を振り返ろう。


石破茂首相が退陣を表明し、10月4日に自民党総裁選挙が実施された。高市早苗、小泉進次郎、林芳正、茂木敏充、小林鷹之の5氏が争う第1回投票により、高市氏(議員票64、党員票119)、小泉氏(議員票80、党員票84)の決選投票へと進む。


キングメーカー麻生太郎氏が票の取りまとめに奔走した結果、決選投票では高市氏が議員票149、都道府県連票36、小泉氏が議員票145、都道府県連票11を獲得して高市氏が総裁に選ばれた。


2024年9月の自民党総裁選挙で、党員票は石破氏が108、高市氏が109を獲得している。前回は合計368のうち109、今回は合計295のうち119だ。高市氏が獲得した党員票は前回が30%、今回は40%にのぼる。この1年で支持を確実に伸ばし、4割の党員票を高市氏が獲得したことには驚いた。


安倍晋三首相(12年12月~20年9月)が退陣したあと、菅義偉首相(20年9月~21年10月)、岸田文雄首相(21年10月~24年10月)、石破首相(24年10月~)と推移してきた。自民党の中で最も右寄りの安倍政権に比して、菅・岸田・石破政権は中道路線に寄った。

この路線を踏襲して小泉氏なり林氏なりにバトンが渡されるのかと思いきや、安倍氏よりさらに右寄りのウルトラライト(極右)の高市氏が党員の篤い支持を集めた。「安倍晋三氏のような政治家に自民党総裁を務めてほしい」という党員の支持を高市氏が糾合し、中道路線の候補を抑えて党員票を壟断ろうだん(独占)したのだ。

  • 日本の国会議事堂

公明党を憤慨させた萩生田光一氏の登用


自民党総裁選挙が終わると、通常自民党と公明党はただちに連立政権維持に向けた協議に取りかかる。ここで異常事態が発生した。公明党の斉藤鉄夫代表と連立についてのトップ会談をする前に、高市氏が国民民主党の玉木雄一郎代表と会談したのだ(10月5日夜)。極秘裏に会談の場がもたれた事実がメディアで報道されると、公明党は憤慨したようだ。


26年間のつきあいがある連立政権のパートナーを袖にしたのだから当たり前だ。ひょっとすると高市氏は、総裁選に当選した足で公明党本部へ一度挨拶に出向いているのだから構わないと判断したのかもしれない。


なお、総裁選直後に公明党本部を挨拶に訪ねた高市氏に対して、公明党の斉藤鉄夫代表は①政治とカネの問題への決着と、企業・団体献金の規制強化、②歴史認識問題、靖国神社参拝問題、③過度な外国人の排斥という三つの「懸念事項」を伝えて釘をさしている。①~③がすべて解決されない限り、連立政権は維持できないと牽制した。


まだ自公の連立協議が決着していないにもかかわらず、高市氏は萩生田光一氏を早々に自民党幹事長代行に任命する(10月7日)。萩生田氏といえば、政治資金収支報告書に2728万円分の未記載が発覚し、自民党政調会長の辞任に追いこまれた裏ガネ議員の象徴的人物である。


自民党総裁選挙を通じて、高市氏自身「裏ガネ問題は決着している」と宣言していた。萩生田氏を何らかの党役員に任命するにしても、いの一番で彼を要職に引き揚げる必要はなかったと言える。公明党との連立協議が円満に決着してから任命するほうが、連立与党間の信頼を強める。


この延長では、閣僚・政務官人事でも裏ガネ議員の抜擢は相当数見られるだろう。これでは政治とカネの問題への決着どころではない。10月10日、斉藤鉄夫代表は高市氏に三下り半を突きつけた。

日本政治再建への安倍晋三首相の覚悟


保守政治家の頭目たる安倍晋三氏は、高市早苗氏とは様相が異なっていた。連立政権のパートナーである公明党への配慮を、安倍氏は常に怠らなかったのだ。安倍官邸では、公明党の山口那津男代表(当時)と安倍氏が定期的に会って意思疎通することに、相当気を使ったという。 安倍氏が難病を抱えて苦しんでいたこともあり、第一次安倍政権(2006年9月~07年9月)は短命に終わった。09年8月の衆議院総選挙で自民党が大敗すると、公明党は民主党政権には与せず下野する。山口那津男代表は、自民党の谷垣禎一総裁(当時)とタッグを組んで野党として捲土重来を期した。 3年3カ月の民主党政権は崩壊し、12年12月の衆議院総選挙で自公両党は与党に返り咲く。政権発足時の安倍氏は極めて謙虚だった。本音のところでは前面に打ち出したかったはずの右寄りの路線を緩め、公明党の意見をよく聞きながら調和に努めた。 当時の安倍氏の姿勢には新たに「日本政治を再建する」という長期政権のファウンディング・ファーザーズ(founding fathers=建国の父)としての強い意志があったというべきだ。 7年9カ月にわたって続いた第二次安倍政権は、20年9月に終わりを告げる。新型コロナウイルスのパンデミック狂騒曲に国内外が揺れるなか、22年7月に安倍氏は暗殺された。 安倍氏が亡くなったあと、高市氏は「自分が安倍氏の遺志を継ぐ」と保守政治家としての覚悟を決めたのだろう。ならば安倍氏のように、公明党の代表や党幹部と心のひだに分け入る意思疎通に努めるべきだった。 彼女のまわりに「総裁、それは止めたほうがいいです」「公明党を甘く見ないほうがいいですよ」と諫言かんげんしてくれる側近がいなかったことこそが問題だ。総裁選挙に勝った結果を見て、側近たちも高市氏と一緒になって高揚していたのかもしれない。見ていると、高市氏の支持層からも公明党との連立解消を唱える声があった。こうした動きに吸い寄せられ、高市氏の視界からは、公明党が消えていたのではないだろうか。いわば自覚せずに無視したのである。

  1. 1
  2. 2

この記事をシェアしませんか?

1か月から利用できる

雑誌の定期購読

毎号ご自宅に雑誌が届く、
便利な定期購読を
ご利用いただけます。