- エンタメ
「狂気」をなだめた奥多摩の大自然――松田優作と松乃温泉「水香園」(東京都)
温泉の真理――、それは「日本人はひとたび温泉に入り、浴衣に着替えればただの人。社会的立場や、鎧を脱ぎ捨て、素顔をさらすことができるのは温泉宿しかない」ということだ。
温泉エッセイストの山崎まゆみさんが昭和のスターたちの「素顔」に迫るノンフィクション「宿帳が語る昭和100年」(定価1980円/小社刊)。潮プラスでは、本書に収録されている全24話のエピソードの一部を特別公開する。
「ブラック・レイン」の台本を片手に
日米合作映画「ブラック・レイン」(1989年)は松田優作の遺作として知られる。末期の膀胱がんだった松田は、医師から「命か、映画か」と選択を迫られるほど深刻な症状だったが、命を削る覚悟を持って撮影に臨んだ。
「ブラック・レイン」は大阪の街を舞台に、アメリカ人の警官マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシアと日本人警官の高倉健が、松田優作扮する日本のヤクザを追跡するアクション映画だ。
私は公開されてすぐに映画館に行ったが、改めていま観ると、青い目と金髪の派手な存在のマイケル・ダグラスに対して、短髪で黒い目をした高倉健のストイックな演技が際立っていた。
ただ最も目が離せなかったのは松田優作だった。
痩せ細り、こけた頬に眼光鋭い目だけをギョロリとさせる様は、姿を現すだけでその場の空気を凍らせた。松田は自身でも「狂気」という言葉をよく使うが、まさに鬼気迫り、背筋がぞっとした。
「ブラック・レイン」の撮影前に台本を持ち、松田優作がひとり訪れたのは東京都奥多摩に湧く松乃温泉「水香園」だった。女将の中村恭子さんが当時を語る。
「いつもと様子が違ったんです。『河鹿(かじか)』のお部屋から出てこないし、口数も少なく、すごく痩せたので、大きな役に取り組んでいるのかなと思いました。でも、何かおかしくて、『大丈夫ですか?』と尋ねましたら、『調子悪いんだよ。身体が痛くてさ』とおっしゃって、『痛くて』と繰り返し、何度も何度も温泉に入っていました」
これが、松田優作が「水香園」を訪れた最後になった。

松田優作 イラスト:南伸坊
日本映画史において強烈な光を放ち、ファンだけでなく多くの役者から今もリスペクトされる松田優作。「人間の証明」(昭和52年)「蘇える金狼」(同54年)「野獣死すべし」(同55年)「探偵物語」「家族ゲーム」(ともに同58年)「それから」(同60年)などアクションから文芸作品まで幅広い役をこなす当代一のスターが、なぜ、東京の奥まった温泉宿に来るようになったのだろうか。
その疑問を女将にぶつけると、意外な答えが返ってきた。
「中学生の頃から優作さんのファンでした。高校生になってからは友達と、日活の撮影所のフェスティバルに必ず行って、優作さんには7~8回はお会いしました。でも、本人を目の前にすると緊張して、何を話したか覚えていませんが(笑)、たぶん『いつも観ているから頑張ってください』と言ったように思います。一度だけ、優作さんが上着を着せてくれたことがありました。ぶっかぶかで暖かかったことを覚えています」
女将が高校3年生の夏休み、最後に撮影所を訪ねた時のことだ。
「『太陽にほえろ!』の撮影中でしたので、石原裕次郎さんや神田正輝さんにも会えました。裕次郎さんから、『どこから来たの』と聞かれたので『奥多摩』と答えると、『あんな所から来たの』と話題が広がり、うちが旅館をやっている話になりまして、『奥多摩なら、いい宿なんだろうな』と、裕次郎さんが言ってくださったんです。優作さんは、その会話に途中から入ってきましたので、どこから聞いていたかはわからないんですが……」
その後、女将は高校を卒業し、撮影所に行くこともなくなった。
それから4~5年経った昭和58(1983)年頃、松田の名前で予約が入る。
「いらしたのは優作さんと、龍平君がお腹にいた身重の美由紀さんでした。私、びっくりしちゃって。優作さんに『撮影所で会ったことがある』とは話しませんでしたが、優作さんが入ってきた時に目が合って、にこっと微笑んでくれたので、覚えててくれたのかな……」
女将にその時の気持ちを尋ねると、
「それはもう嬉しくて……。だって中学から使っていた定期入れに、レイバンのサングラスをした優作さんのブロマイドを入れていて、高校を卒業する時はぼろぼろになっていましたからね」と、興奮した面持ちになった。
まさか松田の予約が松田優作だとは想像もせず、この日は満室だったこともあり、予約通りに四畳半と三畳に渡り廊下だけが付いた最も小さな部屋を使ってもらった。
この日を境に、「水香園」は松田優作の定宿となった。
最初の妻でありノンフィクション作家の松田美智子氏の著書『越境者 松田優作』でも、昭和63(1988)年に美智子氏が松田優作に会った際、「奥多摩にな、俺が仕事に入る前に隠れ家みたいに使っている旅館があるんだ。近くに川が流れていて、風呂も大きいし、いい所なんだ」と薦められたという一節がある。