• 文芸

日本酪農の黎明期を切り拓いた カウガール一代記【高島礼子×河﨑秋子】

  • 対談

お家再興を目指した保里家

高島 日本から海外に渡航すること自体が大変だった時代なのに、保里ますはお父さんに命じられて渡米しているんですね。この父親も只者ではない感じです。


そうですね。ますとほぼ同時代を生きた、大山捨松(おおやますてまつ・1860~1919)という女性がいます。津田梅子らとともに「日本最初の女子留学生」となった人ですが、その留学に際して母親が「捨松」に改名させたといわれています。「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待つ(松)」という意味を込めたそうです。


高島 ああ、それで女性なのに「捨松」なんですね。


河﨑 ええ。明治初期に女性を長期間海外に送り出すことは、それくらいの覚悟がないとできなかったわけです。そんな時代だったにもかかわらず、父親の保里昭平(1841~1923)は、長女のますを渡米させました。確かに、よくも悪くも只者ではなかったと思います。医師でもあったし、進取の気性に富んだ人だったのでしょう。


高島 ますの渡米は留学ではなかったのですか?


河﨑 津田梅子たちのような留学ではなかったようですが、渡米の目的については諸説あって、確定していません。ますを看護師にさせるつもりだったという説もあります。ほかに有力な説として、酪農についてアメリカで調査研究して、優良な種牛を日本に持ち帰らせるためだった、というものがあります。


保里家の出自を辿ると、元々は南北朝の戦いで敗れて没落した名家で、昭平はお家再興をずっと夢見ていたといわれています。維新で時代が変わったあと、酪農という新産業によって保里家を再興させようとしたのかもしれません。その役割を、ますに負わせたわけです。


高島 お金もかかったでしょうね。


河﨑 行き帰りの船賃だけで、いまのお金にして500万円くらいかかったそうです。しかも、ハワイ経由でアメリカに着くまでには船旅で二週間もかかりました。


高島 父親からお家再興を託されて、「背水の陣」で臨んだのでしょうが、英語だってろくにわからなかったでしょうし、20歳そこそこの若い娘が一人で渡米するのはさぞ心細かったでしょうね。


河﨑 もちろん大変ではあったでしょうが、この時代に海外に行くような女性というのは、津田梅子もそうですが、肚が据わっていますよ。覚悟が違います。英語だって、「覚えなければ生きていけない」という必死の思いで学んだからこそ、きっと短期間で話せるようになったと思います。


高島 ますが17年間滞米生活を送った間の行動記録を図にしたものを見ましたが、それによると、アメリカの端から端まで回っていますよね。一カ所に留まっていません。ニューヨークで短期間暮らした時期があったかと思えば、シカゴとセントルイスで二度にわたって「万国博覧会」を見学していたり……。


河﨑 ええ。酪農産業の最前線を調査して、よい種牛を見つけるための行動だったと考えれば、そうした行動にも得心がいきますね。

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