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「人間」以外に「仏」はない──10万人の「第九」

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「一生忘れないよ」

「与論にも日顕宗の坊主がよく来ましたが、一人も脱会しませんでした」と元井勝彦は語る。誰から「宿命転換」の不思議を教わったのか。誰が「法華経の行者ぎょうじゃ」なのか。見誤らなかった。 「昭和33年の秋、横浜に住んでいたフレージー清子さんが、母親の久ひさハナさんを折伏したのが、与論島で最初の学会員でした」(元井勝彦) それから4半世紀。班が生まれ、地区が生まれ、支部が生まれた。その感謝を伝えようと、与論の有志が池田のもとを訪れた。 沖縄で3万人の文化祭が開かれた時のことである。沖縄県知事の西銘順治にしめじゅんじ、元知事の屋良朝苗やらちょうびょうらをはじめ来賓は4500人(1983年3月21日、沖縄市陸上競技場)。琉球放送でもテレビ放映された。 「私たちは人文字の皆さんのそばの席に座っていました。文化祭が終わった後、壮年、男子部の5人で恩納村おんなそんの沖縄研修道場へ向かいました」(中嶋瞳) 嘉手納かでなでバスを乗り換え、谷茶たんちゃの丘のバス停で降りた。沖縄研修道場は、米軍の核ミサイル「メースB」基地跡地に立つ。広島に落とされた原爆の約70倍の威力を持つメースB。その発射台は取り壊さず、池田の提案で、「世界平和の碑」として活用されることになる。

あいにく池田は他の会合に出ていた。5人は夜の勤行をして帰ることにした。勤行の最中、与論の有志が来ている報告を受けた池田から、待っている、という一報が届いた。


研修道場の中に、喫茶コーナーが設けられていた。池田は与論の5人を迎え、「学校の先生かい?」と尋ねた。5人はそれぞれ「いえ、役場です」「飲料水の販売です」「保育園の先生です」「ドライブインを経営しています」「役場です」と答えた。


与論島には川がない。水道の設備は。人口は。飛行機は。ここまで何時間かかるか。奄美大島から与論島までは何時間か……懇談で池田はさまざまなことを尋ねた。はきはきと応じる様子に「立派だ。こんな立派な男子部がいたのか。与論の五軍師だな」「あとで与論の広布のために勤行しよう」。


中嶋が「先生を与論にお迎えするには、どうしたらいいでしょうか」と質問すると"これまでの倍の戦いを"と明快な指針を語った。しばらく激励が続いた後、食事をゆっくり食べるよう言い残して外に出た。


――小さな島だが、支部をつくることができた。その喜びと感謝を伝えに来たのだが、逆にここまで歓迎されるとは想像していなかった。5人は食事もそこそこに外へ出た。


「池田先生は幹部の方々と、ミサイルの発射台跡を見上げながら、ブロンズ像を置く構想を語り合っておられるようでした。そして私たちを振り返って、『もう食べたの?』と言われたのです」


中嶋は「あの一言を聞いた時……」と言って、しばらく言葉を詰まらせた。「日本と世界を舞台に駆け回っている指導者が、あんなに激励してくださったうえに、そんなことにまで心遣いをされるのか、と。いま思い出しても胸がいっぱいになります」。

建物の中に戻ってからも、励ましは続いた。野田俊成は「仏間で一緒に勤行した後、『きょうは彼岸だから、全員の先祖の回向えこうをしました』と。さらにピアノを弾かれました。『春が来た』『うれしいひなまつり』『荒城の月』など8曲でした。最後に弾かれたのは『熱原の三烈士』でした」と述懐する。

「別れ際に一人ずつ握手されたのですが、5人それぞれに違う言葉をかけられました。私には、じっと目を見つめて『お題目だよ』と。あの一言がぼくの人生の原点です」(野田俊成)


「私は君たちのことを一生忘れないよ」。池田はそう言って5人と別れた。帰途に就く5人を、スタッフの一人が追いかけてきた。大成功で終わったばかりの文化祭で、池田が背広につけていた胸章を「与論の男子部の部長に」との伝言だった。その場で元井の胸に大きな胸章がつけられた。


5人のうちの一人、向井豊は2001年(平成13年)に亡くなった。池田の提案で、桜が植えられた。場所は――恩納村の沖縄研修道場だった。4人は再び池田との出会いの場所に赴き、桜を囲んで題目を唱えた。


「君たちのことを一生忘れないよ」という一言の重みを、それぞれが感じた。


この5人の中から、3人の支部長が誕生した。

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