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母・田部井淳子が教えてくれた“人生”という山登り

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東北の高校生による富士登山プロジェクト


――それから5年後に東日本大震災が発生します。ロッジも被害を受けたと伺いましたが……。


田部井 そうですね。建物が一部損壊となって、罹災証明も出ました。なので、観光客が泊まれるような状況ではなくて……。長らく休業しました。温泉の配管を自分でユンボに乗って直したり、傾いた建物を業者に直してもらったり。


辛かったのは余震でした。余震が続くと、少しずつ電球が緩んで落ちてしまうんです。余震のたびに、ロッジ内のあちこちで電球が落ちていました。


落ち着いてから大変だったのは、やはり福島第一原発事故の影響でしたね。線量計を購入して、ホームページやブログで、猪苗代の線量が低いことを公開していたのですが、福島というだけでお客さまが戻ることはありませんでした。それでも、いつでもお迎えできるように整備しないといけませんから。本当に大変でした。

――そうした大変ななかで、進也さんはお母さまとともに、復興支援の一環として「東北の高校生の富士登山プロジェクト」を始められました。この経緯について教えていただけますか。


田部井 じつは、僕自身がリフレッシュしたいと思ったことがきっかけだったんです。とにかく復旧作業で忙しくしていて、テレビをつければ延々と原発事故のことでしょ。何より、気分転換したかったんです。


猪苗代町は、浜通り(福島県沿岸部)からの避難者を受け入れていたんですが、彼らも避難所生活で大変な思いをされていました。そんなときに僕が母に言い出したのがハイキングだったんです。ハイキングだったら皆のリフレッシュになるだろうと。母としては、こんな時期にハイキングなんて本当にできるか不安もあったようですが、被災者である僕自身がやりたかったので「被災者ハイキング」と銘打って2011年6月に開催することにしたんです。


そうして実施したハイキングは好評で、それ以降、毎月やることになりました。ちょうどその頃に、沼尻高原ロッジもようやく営業を再開できました。


当時の猪苗代町の宿泊業者は、浜通りの避難者の受け入れを行っていたのですが、うちのロッジは一部損壊だったので、避難者を受け入れられませんでした。そのロッジが営業を再開したので、うちには被災地の視察に訪れる国会議員の皆さんが頻繁に来られるようになったんです。そうしてうちに宿泊された議員の方々が、社会福祉協議会などにつないでくれて「被災者ハイキング」を毎月実施できるようになったわけです。

富士山から元気と勇気を受け取って


――それが、現在進也さんが取り組まれている「富士登山プロジェクト」につながったわけですか。


田部井 そうなんです。2011年のあるときに母が東海道新幹線に乗っていて、車窓から富士を眺めている際に思いついたそうです。「来年は東北の高校生たちを富士山に連れていこう」と。正直に言うと、母からその話を聞いたときには「まだ復旧作業も終わっていないのに、何を言ってるんだ?」と思いました(笑)。なので、磐梯山でもいいのではないかと提案したのですが、母は「やるなら日本一の山でしょう」と。


ご承知のとおり、富士山は東北からは簡単に行ける山ではありません。だからこそ、高校生たちにその機会をつくってあげて、富士山から元気と勇気を受け取って、明日に進んでもらう道をつくりたい。そんな思いで始めました。


特に大変だったのは、1年目ですね。参加する高校生を集めるために、福島・宮城・岩手の高校にしらみつぶしに電話をかけました。しかし、当然怪しまれるわけです。そこで、母に出身校の田村高校(三春町)に行ってもらったりして、ようやく参加者を募ることができました。あとは、ちょうど登山直前に母が乳がんの手術をしたことも大変でした。

母は絶対に死なないと思っていた


――2012年に始まった「富士登山プロジェクト」には、これまでに約850人の高校生が参加しています。特に印象に残っている高校生はいましたか。


田部井 1年目に参加してくれたちょっとヤンチャな男子高校生のことはとてもよく覚えています。自分で応募したのに、ずっと「だるい」「うざい」ってグチグチ言っているんです。だけど、なんとか登頂して携帯電話で写真を撮っているので「彼女にでも送るのか」と聞くと、「ちげぇよ」と。


それから2週間後に、その子のお母さんから我々の事務所に手紙が届いたんです。そこには、息子から初めて届いたメールが富士山に登頂したというものだった、とありました。そして、手紙を読み進めていくと、彼のお父さんが津波で亡くなっていたことが綴られていました。ダンプカーに乗ったまま流されてしまったそうです。その手紙を読んだときには、言葉を失いました。


じつは、少し前に母ががんの告知を受けていました。母のがんが見つかったときは、なんて言えばいいのか、まるで頭皮の毛穴が開くような感覚がありました。あれだけ命がけの登山をしていた母でしたが、必ず家には帰ってきていたので、今度こそ本当に死んでしまうのかと。


猪苗代町に大雪が降った元日のことです。海外で登山していた母から、雪を心配するメールが来たんですが、僕が「大丈夫」と返信すると「いま地雷を避けながら沢を登っています」と返ってきました。こっちの雪の心配よりも、自分の足元を心配しろと(笑)。あるいは、北朝鮮にある山に登頂したら、軍人がいて銃を突き付けられたとか。それでも必ず帰宅してくれた母なので、がんを知らされたときは本当にショックでした。


でも、津波で父親や母親を亡くした子どもたちのことを思うと、僕は恵まれていると思うんです。僕には最後に母と心を通わせる時間がありましたからね。

数年前に岩手から参加してくれたある女子高生の子は、お父さんのご遺体も骨も何も見つかっていなかったんです。


自分のなかで踏ん切りをつけていかないといけない。どんな思いをして今日ここまで来てくれたんだろう、そう思いました。


その子が登山からの帰り際に、こんな素敵なプロジェクトをありがとうございましたって僕に言ってきたんです。泣きそうになりましたよね。富士山を思い返して、何か辛いことがあっても、乗り越えられるからがんばれよって話をしましたけど、もう充分がんばれていると思ったんです。

山の素晴らしさを知ってもらいたい


――「富士登山プロジェクト」は1000人の高校生の参加を目標としているそうですね。残り約150人ですが、今後の展望についてお聞かせください。


田部井 母は1000人集まればすごく大きな力になると言っていました。ただ、数字にこだわっていたのではなくて、一人でも多くの子どもたちに、富士山をきっかけにしていろいろなことに挑戦してもらいたかったのではないでしょうか。僕も数字にこだわっているわけではありません。


母がよく語っていたことがあります。一歩一歩ゆっくりでもいい、進んでいけば、必ず頂上にたどり着ける。だから、一歩一歩自分の目標や夢に向かっていってほしい――。僕も母と同じ思いです。


もちろん1000人という数字はひとつの目安になりますが、大切なのは東北の人々が自走できるようになることです。それこそが本当の復興の姿だと思うからです。母は、登山費用は大人が責任を持つことにこだわっていました。なので、現在も3000円に設定しています。これは高校生が自らの判断で参加できる金額をイメージしています。


じつは、富士山の登頂率は約70%とされているのですが、「富士登山プロジェクト」に参加する高校生たちのそれは、いまのところ100%となっています。能動的に参加しているからだろうと、僕は考えています。

――最後に、いまの進也さんの活動をご覧になって、お母さまはなんとおっしゃると思いますか。


田部井 どうですかね……。「まだまだだな」って言うんじゃないでしょうか。「富士登山プロジェクト」はまだ1000人に達していませんし、「映画なんてつくって大丈夫なのか」って。きっと、心配以外には何もないと思いますよ。


だけど、映画にしても本にしても、50年前に世界最高峰であるエベレストを目指した日本人女性がいたということを、僕としては一人でも多くの人に知ってもらいたいんです。それが、母が望んだ山や自然の楽しさや素晴らしさを、多くの人に知ってもらうことにつながると思うからです。

一般社団法人田部井淳子基金の「東北の高校生の富士登山」等の取り組みについて、詳しくはホームページをご覧ください。

https://junko-tabei.jp/fuji

映画『てっぺんの向こうにあなたがいる』

出演:吉永小百合 佐藤浩市 天海祐希 のん

監督・阪本順治 配給:キノフィルムズ

2025年10月31日(金) 全国公開

Ⓒ2025「てっぺんの向こうにあなたがいる」制作委員会


原案本

田部井 淳子 著

『人生、山あり“時々”谷あり』を文庫として発売!!


「世界初」の称号と三度にわたる雪崩との遭遇、突然のガン告知と余命宣言、そして東日本大震災の被災地の高校生たちとの富士登山……。

女性初のエベレスト登頂を成し遂げた登山家・田部井淳子が綴った、笑いあり、涙ありの感動エッセイ!!!

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