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ゴルバチョフと池田大作――今こそ求められる平和への遺訓
世界が注目した池田会長との初会談
池田会長とゴ氏がモスクワで初会談したのは、1990年7月27日のことだ。翌日の朝日新聞一面トップに記事が載り、二面には会談要旨も載った。一般紙に大きく紹介されたことからも、この会談がいかに世界から注目されていたかがよくわかる。
当時の日本政府の最大の関心事は、3月15日にソ連大統領に就任したばかりのゴ氏が、いつ初来日するかだった。90年7月20日、中山太郎外務大臣が「ソ連に資金供与してもドブに金を捨てることになりかねない」と発言し、ソ連中枢部は激怒していた。
7月25日に櫻内義雄・衆議院議長がモスクワでゴ氏と対面したが、櫻内氏が北方領土返還を強く迫ったために会談は物別れに終わる。櫻内氏との面会時点では、ゴ氏は訪日に消極的だった。ところが池田会長との会談の場で、ゴ氏は初来日を明言したのだ。
〈大統領 出来れば春に(日本を)訪問したい。
池田氏 桜の咲くころですね。
大統領 (うなずいて)私としてはそういう気持ちです。春は私の人生の象徴の季節です〉
(90年7月28日付、朝日新聞、以下同)
この会談では核軍縮につながる重要なやり取りもなされた。
〈池田氏 広島にも行く希望はありますか。
大統領 広島に行く気持ちはあります〉
89年12月に冷戦が終わり、ソ連にとって次の重要なテーマは東西ドイツ統一だった。東西ドイツの統一が実現したのは90年10月3日のことだ。冷戦時代をリードした大国ソ連のリーダーが、この激動の時期に何を考えているのか。そもそもゴルバチョフ大統領とはどういう人物なのか。世界中の人々が関心を払う中、池田会長とゴ氏の会談は極めて重要なタイミングで実現した。
なお90年12月28日、朝日新聞社長とゴ氏の単独会談がモスクワで実現している。池田会長との会談はそれより5カ月も早い時期だった。池田会長とのやり取りの中でゴ氏はこう語っている。
〈私は政治家としてはグローバルな国際問題を取り扱うには経験は浅いのですが、非核、核のない世界を築いていこう、そして対話の世界を築いていこう、と提唱しました。それを多くの人たちが、当時、ユートピアと言って笑いました。でも見て下さい。今ではそれが実現しようとしているのです〉
初めて出会った瞬間、平和に向けて戦う2人のヒューマン・ファクター(人間の特性)がピタリと合致したのだろう。以後2人は10回にわたって会談を続け、対談集『二十世紀の精神の教訓』を発刊した。
ゴルバチョフ氏と池田会長の共通項
『二十世紀の精神の教訓』を再読すると、改めて「すごい本だ」と感心する。この本を読むと、ゴ氏と池田会長の間に強いつながりが生まれた理由がよくわかった。ゴ氏はエリート階層の出身ではない。貧しい農家の出身だ。池田会長もエリート階層ではなく、東京都大田区の海苔屋の息子だ。
2人には悲惨な戦争体験という共通項もある。戦時中、ナチス・ドイツとロシアは陰惨な独ソ戦を戦った。ゴ氏の生家の村も一時ドイツに占領された。池田会長の4人の兄は徴兵に取られ、長兄は戦死している。「戦争とはカッコいいものでも何でもない。戦争は悲惨だ」という事実を2人とも痛いほど味わってきた。
対談では「全人類的価値」というキーワードが繰り返し語られている。文化も歴史もまったく異なる2人が、普遍的価値観に基づいて共通の議論を重ねていった。
ゴ氏の著作の中には「ナロード」というロシア語がよく出てくる。「国民」「人民」という意味であり、革命運動の中で「ヴ・ナロード」(人民の中へ)というスローガンが使われた。池田会長は「民衆」という言葉を頻繁に使う。池田会長が言う「民衆」とゴ氏が言う「ナロード」は同じ地平に存在する。
冷戦終結を実現させた「新思考」や「ペレストロイカ」(改革)、「グラスノスチ」(情報公開)といったビジョンを語り合う際にも、ゴ氏と池田会長の意見は一致した。民族国家が自分の民族の価値だけを求め続けるのではなく、異なる他者との共通項を見出しながら全人類共通の価値を追求する。「勝つか負けるか」ではなく「お互いが豊かに平和に生きる」というビジョンを両名はとことん語り合った。
対談集の最後に「対談を終えて」と題して2人それぞれのまとめの一文が綴られている。この文章を読むと、まるで冷戦終結から今日のウクライナ戦争に至る世界情勢を言い当てているかのようだ。近未来の世界の動きを見通す『二十世紀の精神の教訓』は、今読み返しても古びていない。