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小泉八雲とセツが夫婦愛で紡いだ『怪談』の世界像

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朝ドラ「ばけばけ」で注目! 逆境を乗り越え、未来を拓いた小泉八雲と妻・セツ。二人の原動力とは? 小泉八雲の曾孫であり、小泉八雲記念館館長を務める小泉凡さんへのスペシャルインタビュー。

(月刊『潮』2025年11月号より転載)

互いに偏見がなかった八雲とセツ


 私は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の曾孫にあたり、現在は小泉八雲記念館の館長を務めています。当館は島根県松江市にあり、八雲の直筆原稿や遺品、著書、妻セツの品々など約1500点の収蔵品を展示しています。


 記念館の隣には、八雲がセツと新婚生活を送った旧居もあります。この屋敷はもともと旧松江藩士・根岸家の武家屋敷で、八雲は美しい庭をとくに気に入っていました。


 新聞記者だった小泉八雲は、日本が急速な近代化を進めていた1890(明治23)年に来日し、島根県松江市で旧制中学校と師範学校の英語教師になりました。そこで小泉セツと出会い、結婚します。当時、多くの欧米人は黒人や東洋人に差別意識をもっていましたが、八雲にはそのような偏見はまったくありませんでした。

セツと八雲がいかに出会い、結婚するに至ったか、正確なところはよくわかっていません。ただ、独り身で不自由していた八雲のために、周囲の人が住み込み女中としてセツを紹介したようです。


 当時、日本滞在中に"仮初めの妻"と同棲する西洋人は多くいました。西洋人相手の遊女や妾は「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれ、さげすまれていました。普通の女性だったら八雲のもとに行くことを断っていたでしょう。にもかかわらずセツが受け入れたのは、世間体や常識を気にしないおおらかな性格ゆえだと思います。


 こんなエピソードがあります。セツが3歳の頃、フランス軍軍事顧問団の一員として来日した下士官ヴァレットによる軍事教練を観ていました。教練が終わり、ヴァレットが近づいてくると、他の子どもは泣いて逃げ出しました。しかしセツだけは逃げずに、彼をじっと見つめていました。ヴァレットはそんな彼女の頭を撫で、虫眼鏡をくれたのです。


 その時、セツは西洋人も自分たちと同じ温かい心をもった人間であることに気づいたのかもしれません。セツは「私がもしヴァレットから小さい虫眼鏡をもらっていなかったら、後年、ラフカヂオ・へルンと夫婦になることも、或いはむずかしかったかも知れぬ」と手記に記しています。

  • 小泉八雲記念館館長 小泉凡氏

妻セツの人生の全容が明らかに


 セツと八雲が惹かれ合っていった背景には、二人の人生に共通点が多かったことも影響していると思います。二人とも物語を愛し、文学の素養がありました。ともに極貧生活を経験し、結婚の破綻という苦難を乗り越えています。二人とも苦しい状況のなかで物語を聞くことを至福の時間としていました。そんな共通点が、二人を深く結びつけたのだと私は思っています。


 小泉八雲は伴侶となったセツを通じて日本文化を深く理解し、やがてセツという最高のアシスタントの力を得て『怪談』などの再話文学や紀行文の名作を生み出します。彼女は常に八雲の執筆の素材となる物語を探し求め、自ら夫に語り聞かせる創作の助手(リテラリー・アシスタント)だったのです。


 八雲の文学作品はセツの存在なしにはありえず、ほとんど合作といって良いほどです。そのようなセツの功績は、これまでも八雲関連の書籍などで紹介されてきました。しかしセツの人生のなかで、八雲と暮らした時期は「二割強」ほど。その前後のセツの人生の全貌は、これまで明らかになっていませんでした。


 そんなセツの生涯を一次資料に基づいて綴った唯一無二の評伝が、長谷川洋二氏が2014年に刊行した『八雲の妻 小泉セツの生涯』でした。歴史家である長谷川氏はセツの幼少期の資料を松江に通って調べ、一次資料を徹底的に調査したうえで、これまでよくわかっていなかったセツの生涯の全容を明らかにしています。

日常の中に伝承や怪談話が根づく土地


 セツは1868(慶應4)年、城下町松江の由緒ある小泉家に生まれました。産みの親の小泉チエは馬琴物を諳じる大変な読書家でした。技芸にも秀で、三味線の名手でした。セツはそんな母親の資質を受け継いでいます。


 彼女は生まれる前から、小泉家の親戚筋である稲垣家の養女になることが決まっていました。稲垣家で愛情たっぷりな、何不自由ない幼少時代を過ごしていました。しかし版籍奉還後の家禄削減により、稲垣家は没落します。その結果、成績優秀で学校が大好きだったセツは当時、義務教育と定められていた小学校下等教科以上に進むことができませんでした。


 そんなセツの心の慰めとなっていたのが物語です。セツは幼少の頃から物語を聞くことが大好きで、大人を見つけては「お話ししてごしない(お話ししてください)」とせがんでいました。幸いなことに稲垣家の養父母や祖父は、セツに語って聞かせる話をたくさん知っていました。当時の松江には、神秘的な民間伝承や怪談話が生活のなかに根付いていたからです。


 セツは大人たちから日常的に、出雲の神々の物語、生霊や死霊の話、狐や狸が人を化かしたり、子どもを神隠しにしたりといった話、雪女や妖怪の話をたくさん聞いていました。そんな幼少の頃に聞いて覚えていた話を八雲に語って聞かせると、彼は大喜びしました。その話がのちに、八雲の描く再話文学の作品として結実するのです。

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