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小泉八雲とセツが夫婦愛で紡いだ『怪談』の世界像

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分断と対立の時代に輝く八雲文学


 八雲は物質文明や合理主義が発展すれば人間が幸福になれるとは、まったく思っていませんでした。「理性より感情、記憶力より想像力が大事だ」と言っています。怪談や妖怪はまさに、感情や想像力によって生み出されたものです。


 面白いことに今、怪談や妖怪に惹かれる人が世界的に増えています。物質文明や合理主義が行きすぎたことに、生きづらさを感じている人が増えているのかもしれません。松江のお隣の鳥取県境港市で育った水木しげるさんの作品に根強い人気があるのも、そのせいかもしれません。


 八雲とセツが生み出した怪談文学への関心も今、国内外で高まっています。松江の地を語り部とともに夜間に巡りながら怪談を楽しむ松江観光協会主催の「闇夜のミステリーツアー」は、今や簡単に予約が取れない人気ぶりです。


 2022年にはイタリア・ミラノで日本の幽霊や妖怪をテーマにした没入型展覧会が開催され、9万5000人が来場しました。翌年からはアイルランドと日本のアーティストが八雲の『怪談』をテーマに版画と写真の展覧会を開催し、両国の10都市あまりを巡回しました。24年には八雲が10年間住んだニューオーリンズのマルディグラで開催されたカーニバルで、「雪女」や「耳なし芳一」など八雲の怪談世界をテーマにした26台の山車(だし)が練り歩きました。


 八雲とセツがつくりあげた作品は東洋と西洋、人と自然、生者と死者、現実と異界をつなぐ物語です。文明化によって失われていった、すべてが一体となったアニミズム的世界です。今、世界には分断と対立が広がり、悲惨な戦争も続いています。そのような時代だからこそ、すべてを結びつけ、「つながりの感覚」を得ることができる、そんな文学や芸術が求められているのだと思います。

逆境も乗り越えるセツの「ばける力」


 このような時代の風潮にジェンダー意識の高まりも加わってか、近年、これまで八雲を支える陰の存在だったセツにも大きな注目が集まっています。2022年には、脚本家の田渕久美子さんが小説『ヘルンとセツ』を発表しました。同じ年、新幹線の車内誌の9月号で24ページにもわたるセツの特集が組まれました。そしていよいよ今年の9月末からは、セツをモデルにした女性が主人公の、NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」の放送も始まりました。


 このタイトルは、恐らく妖怪や幽霊の「ばけもの」「ばける」という語感からとったものでしょう。このようなセツの大ブームを見ると、今まさにセツが「大きくばけた」とも思えます。


 ドラマ化に合わせて、このたび先述の『八雲の妻 小泉セツの生涯』が文庫化され、潮出版社から刊行されました。この文庫にはセツの回想録「思ひ出の記」やセツの手による「英語覚え書帳」も収録されており、小泉セツを知るための決定版となっています。(巻末に小泉凡氏による「解説」も収録)


 私自身は存命中のセツとは会っていません。彼女の孫である父・時(とき)から聞いた話では、彼女は晩年まで、毎朝、鏡の前で身だしなみを整える凛とした女性だったようです。


 そんなセツは八雲が亡くなった後、生活に困窮しますが、八雲の友人たちの奔走で、著作権収入を確保することができました。彼女は人徳と粘り強さによって、苦しい中にも安らぎのある晩年を生き抜きました。セツにはどんな逆境も乗り越え、未来へと進む力がありました。それこそが本当の意味での「ばける力」なのかもしれません。


 ちなみに八雲の本を読むと、あの時代に現代社会を予言していたところがあります。彼は当時、世論と政治があんなに結びつきやすい国はないとアメリカのポピュリズムを問題視しています。今後、経済戦争の時代が訪れ、中国を中心に世界が回っていく、ロシアは必ずスカンジナビア半島など周辺諸国を侵略する――とも指摘していました。彼に予知能力があったというより、何ごともオープンマインドで偏見なしに見ていたからこそ、ものごとの本質を的確につかめたのだと思います。


 八雲とセツは世間体や一般的な価値観に左右されず、主体性をもって生きた新しい感覚の持ち主でした。同時に日本の古いものの魅力を見つけ、大切にしました。そのような両面性をもったうえで、未来志向で前向きに「ばける力」を発揮しました。


 そんなセツと八雲に、ようやく時代が追いついてきた、といえるのかもしれません。

小泉八雲の妻・セツの人生がこの一冊に凝縮!

出雲・松江でラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とめぐり合い、人生の伴侶であっただけでなく、『怪談』などの再話文学創作における最高のアシスタントでもあった小泉セツ。

そんな一人の女性の生涯を、豊富な資料をもとに丁寧に描き出した唯一無二の力作評伝。

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