• 生活 文化

【特別公開】佐藤弘夫の新連載 第1回:自然と共に生きるアイヌ文化の精神

北方民族に共通する神話的思考とは


美幌峠での取材を終え、私が向かったのは阿寒湖アイヌコタン(釧路市)でした。「コタン」とはアイヌ語で「集落」との意味です。やはり信号の少ない道を車で1時間強。ここでは映画に出てくる日川エカシがかつて営んでいたお土産屋が、いまも営業を続けていました。アイヌ料理を出す店で、ユックオハウ(鹿肉のスープ)を美味しくいただき、1日目が終わりました。


翌日は、来た道を戻る形で女満別空港を過ぎ、網走市の北海道立北方民族博物館を訪問しました。ここはとても充実した展示で、北海道のみならず東はグリーンランドのイヌイト(エスキモー)から西はスカンディナビアのサミ(ラップ)まで、広く北方地域の諸民族の文化や、その形成にかかわるオホーツク文化を中心とした先史文化が紹介されています。


展示をつぶさに見ていると、北方民族に共通の神話的思考があることが見て取れました。すなわち"人と動物は交流できる"という思考です。アイヌ以外の民族にも、クマなどの動物の霊送りの儀式が見られ、動物の遺体をとても丁寧に扱っているのです。


印象的だったのは、カナダの先住民族であるトンプソン族に伝わっていた異類婚姻譚です。ヤギの毛皮を被った男が、本物の雄のヤギとなり、雌のヤギとのあいだに子どもをつくるという話です。これはヤギを狩猟するその種族に対する一種の警告として伝えられた物語になっています。つまり、「ヤギの雌と子どもを殺すな。なぜならそれはお前の妻と子どもだからだ」というメッセージです。


展示室には、動物の毛皮でつくられた防寒着も紹介されており、それらを見ていると、動物と人間がいま以上に深い次元で交流していたことがよく分かりました。美幌峠に足を運ぶ際には、ぜひともこの北方民族博物館にも足を運んでいただければと思います。

  • 羅臼岳

    知床峠からは羅臼岳が一望できる

神が存在しない近現代の欺瞞性


最後に訪れたのは、多くのクマが生息する知床半島の、羅臼町です。網走から延々と海沿いの道を東に走り、知床半島のちょうど真ん中あたりから知床峠を越えて、半島の東側に下ります。約2時間の道中には、車窓からエゾシカやヒグマの姿も見えました。 知床峠の途中にある展望台で車を止めて外に出ると、羅臼岳が一望できます。文字通りの原生林で、クマが生息しているのは当たり前です。広大な景色を目の当たりにして私が想像したのは、近世以前の本州の風景でした。 江戸時代の日本の人口は、最も多いときで3000万人程度と推測されており、人間が住むエリアは極めて限定的でした。都市部以外は森林に覆われており、それがゆえに人々には"世界の一部を借りて住まわせてもらっている"という意識があったのではないかと思うのです。では、人々は土地を誰から借りていたのかというと、神や仏と呼ばれる大いなる存在です。例えば、マタギは森のなかに入るときに儀式を行います。それは人間が暮らす場所ではない別の世界、すなわち神の世界に入るときの作法なのです。 ところが、それが明治期になると、すべての土地が人間によって管理されるものになるわけです。都道府県や市町村の境界や国境がその象徴です。明治政府はアイヌから取り上げた現在の北海道を"無主むしゅの地"と呼びます。これはまさに神が不在の近代的な発想と言えます。 領土問題においてしばしば「固有の領土」という言葉が使われますが、近世以前にそんな概念はありませんでした。冒頭でも述べたとおり、いまなお繰り返されている国家間の争いごとに目を向けるたびに、私の眼前には、こうした近現代人の"欺瞞性"が立ち現れてきます。 人間は決して唯一の特権的な存在ではなく、他の生命との関係性のなかで生かされている。そもそもこの世界は、人間が所有し、管理できるものではなく、神や仏といった大いなる存在から借りているものである――。1986年に行われたイオマンテの痕跡を探る今回の旅では、アイヌのそうした思想的背景が見えてきました。そして、そのアイヌの知恵は、さまざまな地球規模の課題を抱える私たち現代人に対して、とても大切な視座を与えてくれるのではないでしょうか。 道内での移動距離は約300km。総じて信号機は少なく、窓外には絶えず広大な景色が広がっていました。 羅臼町に到着すると、海峡の向こうに国後島の島影がくっきりと見えます。かつてここに暮らしたアイヌには"国境"という概念はなく、海峡の神への畏敬の念があったはずです。 (つづく)

  • 国後島の島影

    羅臼町から見えた国後島の島影

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