澤田瞳子最新作!
直木賞受賞後、初の長編連載が待望の単行本化!
八世紀の奈良、欲望渦巻く平城京に
投げ出された異邦人と浮浪者たちーー。
争いの渦の中でもがき生きる彼らの姿を稀代の作家が精緻な筆致で描く、衝撃のデビュー作『孤鷹の天』へと続く物語。
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第一章 異郷
木の葉は温かい。
大きな葉に小さな葉。丸い葉、細長い葉、とげとげした葉。形も色も様々だが、いずれもかき集めてもぐり込めば、凍えた手足が次第にぬくもってゆく。手足や襟元がちくちくし、時折、蟷螂や芋虫が顔を出すのも、三方を山に囲まれた寧楽(なら・奈良)の秋冬の寒さの前には、大したことではない。
起きていれば、腹が空く。腹が空けば、風の冷たさが身に染みる。帰る場所のない心細さや、この先どうやって暮らせばいいのかとの不安が、ようやく膨らみ始めたばかりの狭虫(さむし)の胸を大きく揺らす。だから何もかもを忘れるためにも、身を丸めて眠ってしまうのが一番なのだ。
もっとも狭虫のような浮浪児が枯れ葉を臥所(ふしど)に休むには、よくよく場所を選ばねばならない。町並みから遠く離れた秋篠の山々や佐保川の河原では腹を空かせた野犬に食われてしまうし、さりとて高い築地塀(ついじべい)が続く大路沿いでは、上つ方の屋敷を守る門番や衛士(警備員)にすぐさま追っ払われるためだ。
「六条大路か七条大路あたりの路地裏が一番いいんだ。市や酒家(飲食店)があたりにあるおかげで残飯にありつきやすいし、酒を飲んだ帰り道の奴らの後をつけ、銭袋をひったくりもできるしさ」
そう話していた三歳年上の真鳶(まとび)は、平城京を吹き通る風が冷たくなり始めた秋の半ば、薬師寺裏の小道で寝ていたところに火を放たれ、丸二日、火傷で苦しんだ末に亡くなった。近くの溝まで小便に行っていたために命拾いをした狗尾(いぬお)は、黒衣禿頭の男たちが薬師寺の裏門を入っていくところを見たと言う。だが家も親もおらぬ浮浪児の言葉に耳を傾ける者は、誰もいない。
社寺がすっぽり収まりそうなほど広い朱雀大路。真っ赤な柱と緑色の瓦で彩られた大小の屋敷。手輿(たごし)に乗って行き交うきらびやかな衣をまとった貴人も、忙しげに行き交う人々も、真鳶の亡骸を囲んでうなだれる狭虫たちの姿なぞ、誰ひとり振り返ろうともしない。
とはいえ、人のことは言えぬのだ。真鳶の骸を、狗尾や駒売(こまめ)とともにかわるがわる担いで生駒山に運びながらも、狭虫の頭は空腹で霞み、怒りや哀しみといった感情よりも、今日は食い物にありつけるだろうかという不安ばかりがたゆたっていたのだから。
応遵(おうじゅん)の寺にいた時に十人いた仲間たちは、これでついに三人になった。その上間もなく、寺を追い出されてから二度目の冬が来る。どれだけ駒売たちと身を寄せ合っても寒風が吹き付ける季節は、家も親もない身には、仲間の死よりもなお恐ろしかった。
「よおし、この辺りでいいだろう。埋めるぞ」
寧楽の西に峰々を連ねる生駒山は、古くからの葬地。同じく空腹に足をもつれさせているくせに、わざわざ都を離れたこんな山中まで真鳶を運ぼうと言い出したのは、三人の中でもっとも年上の狗尾であった。
「馬鹿みたい。どうせ犬に食われちゃうのは同じだってのに、わざわざこんなところまで運ぶだなんて」
駒売が荒い息とともに毒づいて、その場に座り込む。年は狭虫より二つ下のはずだが、どれだけ空腹が続いても不思議に丸みを失わぬ頰と嗄れぎみの声のために、十一歳という実際の年齢より大人びて見える。
狗尾はそれには答えぬまま、厚く降り積もった枯れ葉をかき分け、適当な木切れで地面を掘り始めた。お前らも、と促されて駒売とともにしゃがみ込めば、昨日降った雨のせいか、黒い土は柔らかい。それをいいことに二尺(約六十センチ)ほども地面を掘ってから、狗尾は狭虫たちを振り返った。
「もっと深く掘るぞ。犬なんぞに、真鳶を食わせてなるもんか」
「やってらんないわよ、もう」
駒売がいきなり、棒を捨てて立ち上がる。穴の底から這い上がるや、きっと目を吊り上げて狗尾を睨み下ろした。
「真鳶は死んだのよ。そんな奴のために手間暇かけるより、今日の食い物を探す方が大事じゃない。あたしは帰るわ。東市の入り口で哀しい顔をして座っていれば、粥や蒸し飯を食べさせてくれる人が一人ぐらいいるはずだもの。邪魔になるだけだから、二人ともついて来ないでよ」
言うが早いか駆け出す背が、見る見る小さくなる。狗尾は日焼けした頰を強張らせてそれを見送っていたが、やがて太い息をついて、穴の底にしゃがんだままの狭虫を顧みた。
「狭虫、何ならお前も帰れ。駒売と並んで物乞いをすれば、何か食わせてもらえるだろ」
「いいよ、あたいは。駒売も嫌がるだろうし」
分かっている。同じ場所で物乞いをしても、狭虫と駒売ではもらえる食い物の量が格段に異なる。狭虫の姿を見かけるや、「また来たのか。この餓鬼が」と笞を振り上げる市司の役人も、駒売が相手となると、「腹を空かせているんだな。気の毒に」と目を細める。ともに垢にまみれ、蓬髪を藁しべで結わえていても、狭虫と駒売では人々から向けられる眼差しが最初から違うのだ。
それだけに下手に狭虫がついて行くより、駒売一人で物乞いをさせた方がもらいは多い。駒売は今日もきっと最後には、食いきれなかった結び飯などを懐に押し込んで、市から引き上げてくるはずだ。万事要領が悪く、駒売ほどには愛らしくもない狭虫には、そのおこぼれだけで十分であった。
「……なんでこんな風になっちまったんだろうな。まるでいつの間にか、遠い遠い知らねえ地に迷い込んだみてえな気分だ」
低い呻きに顔を上げれば、地面に寝かせていた真鳶の亡骸を狗尾が穴の底に引きずり下ろそうとしている。あわててそれを手伝いながら、狭虫は斜面の果てに広がる都の町並みにふと目を向けた。
(――それ、美しかろう。日本広しといえど、これほどに条坊相整った地は他にはないぞよ)
東西南北に整然と走る大路の果て、長い築地塀の中で秋陽に甍(いらか)を輝かせる大小の建物は、この国を治める帝のおわす宮城。白砂が光る中庭は、官人たちが政務を執る朝堂院。その南北にそびえ立つひときわ巨大な建物は、大極殿に朱雀門。
いつだっただろう。応遵が寺で養っていた子どもたちを引き連れ、この生駒の山にやって来たことがあった。眼下にはるばると広がる平城京を見下ろし、都のあれこれを教えてくれた穏やかな声はまだ耳の底に残っているのに、あの時とは何もかもが違う。
都の町並みが、水をくぐったかのように滲む。組み合わせた両手は自分のものとは思えぬほどに冷え切っており、こみ上げる涙の熱さをますます際立たせた。
狭虫も駒売も狗尾も、自分たちがどこの生まれで、父母は何者かを知らない。ただ一つだけ分かるのは、己が幼くして捨てられ、都の外れ、羅城門にほど近い破れ寺に暮らす応遵に拾われた事実だけだ。
狭虫が物心ついた時、すでに応遵は六十過ぎ。一日じゅう都を歩き回って托鉢をしては、子どもたちの食い物を集めて来る、穏やかな老僧だった。狗尾と真鳶を筆頭とする少年たちは、そんな育ての親を少しでも助けるべく、近隣の家々の手伝いに励み、狭虫や駒売たち女児は寺の掃除やつくろいものに精を出した。
応遵によれば、狭虫が生まれた年は畿内一円に天変地異が相次ぎ、即位したばかりの若き帝・首(聖武天皇)はすべては自分が至らぬからだと詫びる詔を出したという。食い詰めた人々が本貫(本籍地)を離れて流民となり、荒れ果てた農地だけとなった郷が、諸国に数え切れぬほど残された。
(おぬしらの父御母御はどうにも食うていくことができず、幼きおぬしらを路傍に捨てたのだろう。されどかような境遇を恨むではないぞ。生きてさえいれば、必ずや良きことはあろうからな)
そんな貧しくとも温かな日々が一変したのは、昨夏の終わり。応遵が托鉢先で倒れて、そのまま目を覚まさぬまま、帰らぬ人となった。直後、応遵の遠縁と称する男が寺に乗り込んできて、十人いた養い子たちを叩き出しにかかったのである。
狗尾や真鳶たちは無論抵抗したが、大人相手に敵うわけがない。しかも庶民が僧侶になるためには、役所の許可を得、正式な手続きを踏む必要があるらしいが、親類の男によれば、応遵はどうやら勝手に得度を果たした私度僧だったらしい。
それが租庸調を始めとする税逃れのためだったのか、他の理由があったのか、もはや確かめるすべはない。ただ一つ明らかなのは、応遵が私度僧だったと知れ渡った途端、それまで子どもたちに親切だった近隣の家々がみな、掌を返すが如く関わり合いを拒んだことだけだ。
かくして狭虫たちは頼るべき者の一人もおらぬまま広い都に放り出され、あっという間に空腹を抱えてさまよう羽目となった。住まいを奪われ、養い親と死に別れてみれば、大路の雑踏はひどくよそよそしく、道端で泣きじゃくる子らに目を向ける者は皆無に近い。
加えて、行水も使えず、日に日に身体が垢じみて行けば行くほど、往来の人々が狭虫たちに向ける眼差しは乾き、遂には路傍の石や野良犬を見るが如き冷淡さとなった。
狭虫と同じ年だった少年の一人は、魚を捕まえて食おうと佐保川に入り、足を滑らせて流れに飲み込まれた。些細な風病(風邪)をこじらせて亡くなった幼い女児、拾った干し肉を食った翌日、激しく腹を下して死んだ駒売と仲良しの男児……いなくなってしまった仲間を指折り数えれば、自分が生き残っているのが不思議なぐらいだ。
どうと風が吹き、音を立てて木の葉が散る。色鮮やかな落葉越しに改めて都を見下ろしながら、また冬が来る、と狭虫は胸の中で呟いた。
去年の冬はかろうじて乗り切れた。だが、今年はどうだ。来年は、そのまた次の冬は。仮に狭虫は生き延びられたとしても、駒売や狗尾がずっと一緒にいてくれるとは限らない。地を這う蟻を笑って踏みにじる子どもの如く、ただ道端で寝ているだけの少年を焼き殺そうとする者は、この都には他にも大勢いるに違いないのだから。
「おい、どうした。泣いているのか」
真鳶の亡骸を埋め終えた狗尾が、狭虫の顔をひょいと覗き込む。泣いてない、と涙声で応じる頭を、土で汚れた手で抱え込んだ。
「そうだよな。本当を言えば、おいらも泣きてえ気分だよ。畜生、真鳶がいったい何をしたってんだ」
狗尾は心根が優しい。応遵の親族によって寺を追い出された時も、相手に噛みつかんばかりにして抗う真鳶や駒売をなだめ、どうにか話し合いで事を落着させようとしたほどだ。結局、その優しさは何の役にも立たなかったけれど。
「泣くなよ。泣けばその分、腹が減るぞ」
そう言いながらも、狗尾の言葉尻もまた、すでに涙に上ずっている。泣いてない、ともう一度言い返して、狭虫は両手で顔をこすった。黒々とした土饅頭のかたわらに膝をつき、じゃあね、と土の下に別れを告げた。
真鳶は幸せ者だ。これまで死んだ仲間のほとんどは、そもそも亡骸が見つからなかったり、狭虫たちが目を離した隙に野犬に食われたりで、満足に葬ってやることができなかった。それに比べれば、真鳶は冷たい土の下とはいえ、五体満足で眠ることができるのだから。
横目でうかがえば、狗尾は両目と鼻先を真っ赤にして土饅頭を見つめている。やがて、上ずった声で「よし」と勢いをつけると、狭虫の肩を大げさなまでに大きく叩いた。
「帰るか。陽が落ちる前には駒売と落ち合って、今日のねぐらを探さなきゃな」
寧楽の庶人は、狭虫たちが軒下や路地裏で寝起きしていても、最初の一日、二日は知らぬ顔をする。だがそれが四日、五日と続くと次第にしかめっ面となり、しまいには犬をけしかけたり、寝床代わりの枯れ葉の山に水をぶちまけたりするのだ。
真鳶が火をかけられた薬師寺裏の路地は、まだ寝起きを始めてから二日しか経っていなかった。それでも何の前触れもなく危害を加えられたことを思えば、本当は毎日、ねぐらを変えた方がいいのだろう。
うなずき合って山を下ると、二人はまず駒売を探そうと左京の東市に向かった。だが、夕刻前のひと時はもっとも混雑する時刻─すなわち物乞いをするにはもっとも稼ぎの多い時刻にもかかわらず、なぜか市門の前に駒売の姿は見当たらない。
買い物を終えて立ち去る人々、手押し車に積み上げた蔬菜(そさい)を運び込む男、どこぞから大量の注文を受けたのか両手いっぱいに笊を抱えた物売りの女などが入り混じり、市門の前はいつもにも増して騒がしい。買い物客が押し寄せれば、それを当て込んだ煮売り屋台が周囲に立つのが世の常で、粥売りがまとわりつかせる甘い湯気やじゅうじゅうと音を立てて焼かれる獣の肉の旨そうな匂いが、土埃と相まって顔を叩く。狭虫は口の中に湧く唾を飲み込んで、立ち並ぶ肆(いちくら・店)から無理やり顔を背けた。
「まったく。あいつはどこに行っちまったんだ」
空きっ腹を抱えているのは、狗尾も同じ。忙しく四囲を見回すその眼差しもまた、何かを堪えるかのように潤んでいる。駒売への苛立ちと更に募る空腹を、狭虫が奥歯で噛みしめた時、駒売が行き交う人波をかき分けてこちらに駆けて来た。
「どこに行っていたんだ」
と、咎める狗尾と狭虫の腕を摑むや、市を囲む土塀際に二人を連れ込んだ。
塀のぐるりには、市内での営業が許されぬ立ち売りたちが集い、市からの帰り客目当ての商いに勤しんでいる。売られているのは市の価格に比べれば明らかに廉価な分、何の肉なのかよく分からぬ串焼き肉、目玉が映りそうなほど薄い粥……それでも案外、客は多いと見え、筵掛(むしろが)けの小屋のそこここには人の列が生じていた。
そんな彼らの間を縫って、道を北へ北へと向かいながら、「さっき、面白い一行が大路を進んでいくのを見かけたのよ」と駒売は声を上ずらせた。
狗尾の小言なぞ皆目耳に入っておらぬと見えて、黒々とした睫毛に縁どられた双眸が星を宿したかのように底光りしていた。
「唐の都から帰って来たお使者なんですって。それも、ただのお使いだけじゃないのよ。顔の色が妙に浅黒い奴や、ぞろりと長い袖に変な冠を着けた奴らが幾人も混じっていたの。都の衆が噂しているのを聞いたのだけど、お使者と一緒に外国の奴らもやって来て、内裏の帝にご挨拶に行くらしいの」
狗尾が狭虫を振り返る。口を尖らせて見せた狭虫に分かっているとばかりうなずいてから、「それはそれとしてよ」と駒売の腕を摑み返して、その場に足を踏ん張った。
「今日の飯はどうなったんだ。ねぐらも探さなきゃならねえし、ぐずぐずしている暇はないぞ」
「だから。その飯の種になりそうな奴らを見かけたって言ってるじゃない」
狗尾の腕を振り払い、駒売は苛立たしげに足を踏み鳴らした。なんだって、と目を剥く狗尾にふんと鼻を鳴らし、「あたし、ちゃんと耳をそばだてて聞いてきたんだから」と目を尖らせた。狭虫がつい目を奪われてしまうほど、自信に満ちた表情であった。
「今日、宮城に入って行った奴らが唐から都に帰って来たのは、もう十日も前。それから今日までの間、左京五条一坊の客館(きゃっかん)というところに暮らしていたんですって。帝への拝謁が終わったら、お使者とその従者たちはそれぞれの家に戻り、外国から来たお坊さまは大安寺に、それ以外の外国の奴らは客館の近くに家を与えられ、今後はこの都の者として生きていくそうよ」
大路の果て、巨大な官衙のただなかに暮らす天皇が、海山何千里も隔たった唐国なる異国に使いを派遣したことは、まだ健在だった頃の応遵から聞いたことがある。
駒売がかき集めてきた噂によれば、今回戻ってきた一行は、そんな遣唐使のうち副使・中臣名代(なかとみのなしろ)に率いられた者たち。大使である多治比広成(たじひのひろなり)はすでに昨年の春に都に帰りついているが、中臣名代は帰路の船が難破して大使とはぐれたため、一旦、唐国に戻り、大使より一年以上も遅れて帰国を果たしたという。
日本から唐国へと送られる使者は、四隻の船団のうち一隻が無事に帰国すれば成功と言われている。それだけに第三船・第四船はいまだ帰着していないとしても、大使の乗った第一船、副使の乗った第二船が帰りついただけで、今回の遣使は喜ぶべき結果を収めたことになるのだろう。天皇は本日、副使一行を自ら労う宴を設け、それは夜半まで続く予定という。
「それがどうしたってんだ。俺たちに大事なのはそんな宴じゃなくて、今日の飯だろうが」
声を荒らげた狗尾を、駒売は小馬鹿にしたように見つめた。のみならず、「頭が悪いのねえ」と舌打ちをして、大路の果てにそびえ立つ巨大な朱雀門を目で指した。
「宴があるってことは、外国の奴らが自分の家に帰るのは、辺りが真っ暗になってからってことじゃない。都に来て日が浅いとなれば、そいつらは右も左も分からないはずよ。もちろん都の大路小路にも詳しくないでしょうし、いきなり物盗りに遭ったって、追いかけもできないんじゃないかしら」
「駒売、おめえ――」
狗尾が細い目を瞠る。駒売はようやく分かったかとばかり、にっこり笑って首を傾げた。
「宴の帰りとなれば、帝から何かいただきものをしてるかもしれないわよ。少なくとも空手ってことはないでしょうし、うまく行けば数日は食うに困らずに済むんじゃない?」
「馬鹿ぬかせ。相手は遠い海のむこうから来た奴らだぞ。身体だって都の衆よりずっと逞しいかもしれないし、万一失敗した日にはひでえ目に遭わされるかも」
「大丈夫よ。確かに応遵さまと同じ禿頭の奴らは身体も大きくて、見るからに厳めしかったけど。一人だけ、ようやく根付いた柳の木みたいにひょろひょろな奴がいたの。年もおそらく、狗尾とあんまり変わらないんじゃないかしら」
あいつなら簡単に襲えるはずよ、と迷いのない口調で告げて、駒売は狭虫と狗尾を見比べた。
往来を行く者からのかっぱらいや市での盗みは、狭虫たちには今や、ごく当たり前の生業となっている。初めて市の店先から結び飯をかすめ取った時は、己がしていることの恐怖に、逃げる足がもつれた。だが物陰に転がり込むとともに食らいついた塩飯の旨さは、そんな怯えや後ろめたさを一瞬にして吹き飛ばした。
平城京内には田畑が乏しく、畑の生り物を奪って食いつなぐことは難しい。何も持たぬ自分たちが生きるためには、盗むか奪うしかないのだ。
激しい焔に肌を焼かれ、じゅくじゅくとした液体を染み出させながら冷たくなっていった真鳶の身体は、今ごろ真っ暗な土の中で蜈蚣(むかで)や蟻に蝕まれ始めているのだろう。彼と同じようになりたくなければ、一日一日を生き抜くべく足掻かねばならない。それより他、自分たちにできることはないのだから。
「しかもありがたいことに、今日は半月。月の出は遅いし、顔を見られずに済むはずよ」
どう、と駒売に笑いかけられ、狭虫の腹が応えの代わりにぐうと鳴る。
すでに日は大きく西へと傾き、三人の長い影が薄汚れた市の築地塀に向かって伸びている。市の店々は早くも店じまいに取りかかり、買い物の人々も帰路につき始めた今、これから物乞いに取りかかったとて、三人分の飯を集められるかは甚だ怪しい。
「宴席の残り物も持っているかもしれないわよ。昔、応遵さまがどこかの宴に招かれた折は、油で揚げた煎餅や甘い粔米(おこしごめ)をどっさり持ち帰ってくださったわよねえ」
そそるような言い方に、なおさら腹の虫が激しく鳴る。
麦粉を練り、胡麻の油でからりと揚げたところに塩を振った煎餅や、煎り米に甘葛をたっぷりとかけた粔米。応遵がごく稀にそれらを持ち帰った折には、弾けるような歓声が狭い寺を揺らしたものだった。
「─―その一行は、もう宮城に入って行ったんだな。異国の奴らなら、確かにこっちもいつも以上に遠慮は要らないからありがたいな」
ごくりと生唾を飲み込んで、狗尾が問う。その震え声に心の弾みと哀しさを同時に覚えながら、狭虫は茜色を増し始めた夕日を仰いだ。
雲一つ見えぬ空に早くも夕星が明るく瞬き、今夜の風の冷たさをありありと物語っていた。
ぎぎ、と鈍い軋みを上げて朱雀門の脇門が開くとともに、夜風が鋭い音を立てて辺りを吹き過ぎる。長い朱雀大路を渡ってきたせいか、まだ秋とは思えぬほど凍てたそれに、微醺(びくん)に火照っていた頰が一度に覚める。袁晋卿(えんしんけい)はぶるっと身体を震わせた。
「――」
門を開けてくれた衛士が何やら話しかけてくるが、日本の地を初めて踏んでから、まだひと月。晋卿にはまだ、この国の言葉がほとんど分からない。幸い、中臣名代を始め、船中で一緒だった日本の官人たちはみな読み書きに漢字を使っていたため、筆談をすれば大概の意思は通じた。だが会話となると、長安(現在の中国・陝西省西安市)育ちの晋卿にとって、この国の言葉はまるで鳥の鳴き交わしのように間延びして聞こえ、怒っているのか喜んでいるのかすら判然としない。
「まったく、えらいところに来てしまったものだ」
と唐語で呟くと、後にしてきた郷里の遠さが身に染みる。こればかりは長安とよく似た大路の広さが、ひどく恨めしかった。
「おおい、晋卿。ちょっと待て」
妙に発音のよい唐語の呼びかけに振り返れば、擦り切れた袈裟をかけた四十がらみの僧侶がこちらに向かって駆けてくる。
鉢の広い禿頭を衛士の焚く篝火に光らせながら、「住まいまでの道は分かるよな。内裏に参入する前に教えた通り、朱雀大路をまっすぐ南に下がって、三本目の道を左だぞ」と肉付きのいい腕で南東の方角を指した。赤銅色に日焼けした顔とずんぐりとした体躯は、僧形でさえなければ、どこかの武官と間違えそうな逞しさだった。
「そこまで言うなら、玄昉(げんぼう)どのが案内してくださいよ。わたしはまだこの国を一度も一人歩きしたことがないんですから。いきなり、自分の家に一人で行けって言われても」
「まあまあ、そう文句を言うな。本日より、おぬしはめでたくこの日本(ひのもと)の民。本貫地もこれより向かう左京五条二坊十六町の地に定められ、民部省(みんぶしょう)の戸籍にも袁晋卿との名が記されたのだ。そんな日本の民が夜の都を歩けぬ道理がなかろうが」
ははははと高笑いをして、玄昉が乱暴に晋卿の背を叩く。席が遠かったために確信が持てなかったのだが、先ほどの宴席で玄昉が酒杯を口にしていたように見えたのはどうやら間違いではなかったらしい。
(まったく、えらいところに来てしまった)
胸の中でそう繰り返していると、「なんだ、なんだ、その面は」と玄昉がこちらの顔をのぞき込む。
「そんなに夜道が案じられるのなら、衛士でも付けてもらうか。まったく気弱な男だなあ」
「そういうわけではありません。ただ、わたしにとってこの国は、何から何まで未知の地なのですよ。それをいきなり宴には引っ張り出される、今後の住まいは勝手に決められる。果てはおぬしは日本の民だ、さあ、喜べと言われて、それでうきうきとできるわけがないでしょう」
まくし立てるうちに舌がもつれる。「喜べとまでは言うておらぬはずだがな」との玄昉の平然とした呟きが、腹の底に押し込めていた苛立ちと不安を一度に大きく膨らませた。
「だいたい、わたしは日本に来るつもりなんぞなかったのですよ。それがそなたさまの書物の整理の手伝いをしている間に、あれよあれよと言いくるめられおだてられ、はたと気が付くとこんな東の地に」
長安を離れる羽目になって、間もなく二年。国を出た不安なぞ、とうに忘れたつもりだった。そもそも長安を辞す遣唐使一行に加わって都を離れ、揚州から帰路につく彼らの船に乗り込んだのは、他ならぬ自分の意志だ。
とはいえ先ほど宴席が終わるのを待たず、それぞれの自宅に嬉しそうにこっそり引き上げてゆく水子(かこ・水夫)や官人たちを見送った後だけに、後にしてきた郷里への思いが急に胸の底からこみ上げて来る。未知の異郷に対する興奮や興味は針で突かれた革袋の如くしぼみ、玄昉に促されるまま日本に来てしまった愚かさに、指先までがしんと冷え始めていた。
だが玄昉はめんどくさそうに溜息をつくばかりで、まったく動じる気配がない。
「ちょっと、聞いているのですか」
と詰め寄る晋卿に、「ふん、嫌でも聞こえているさ」と舌打ちをした。
「けどなんだ、その言いざまは。申しておくが、拙僧はおぬしを力ずくで長安から連れ出したわけじゃないぞ。一昨年の夏、おぬしを拙僧の手伝いに寄越したのは、他ならぬおぬしの父御だ。その上、拙僧たちが十六年ぶりに来た大使さまの船で長安を去ると決まった時も、揚州からいよいよ船出となった折も、ほいほいと一行に付いてきたのはおぬしだろうが」
睨み合う晋卿と玄昉に、矛を手にした衛士たちが仲裁すべきかと顔を見合わせている。去れ、と彼らに手を振ってから、玄昉は四角い顎を傲岸に上げた。
「どうだ、間違っているか」
父子ほど年下の晋卿を相手にしているとは思えぬほど、大人げない態度であった。
晋卿の父は、長安の官営市場を運営する役所・市署の下級役人。そんな父が晋卿が生まれた年、つまり開元五年(七一七)に唐にやってきた遣唐留学僧・玄昉と顔見知りとなったのは、玄昉が入唐(にっとう)直後から暇さえあれば市の書肆(しょし・書店)に足を運び、時にはまだ覚束ない唐語で値引きの交渉まで始める変わり者だったためと聞く。
なにせ大唐の都・長安は、東海の果ての日本を始め、半島の新羅、北方の渤海(中国東北部)・契丹(モンゴル高原東部)、南方の安南(ベトナム北中部)や林邑(ベトナム南部)といった周辺諸国から朝貢を受ける大国。そのため長安の大路ではしばしば、目の色も髪の色も異なる人々が見かけられたが、彼らは外国の使者たちの官舎・鴻臚寺での居住が定められ、勝手な街歩きは許されない。外出の際は必ず列を成し、彼らの応対に当たる典客署の官人や訳語(おさ・通訳)をぞろぞろと引き連れて大路を行くのが慣例であった。
それだけに今から十九年前、単身、市を訪れる日本人僧の姿は否応なしに目立ち、すぐさま市署と典客署の官人が駆け付けて、彼を鴻臚寺に連れ戻す騒ぎとなった。だがその僧侶は幾度掴まえても、数日後には再びけろりとした顔で市に現れるため、とうとう根負けした典客署が市署の役人を監視に付けてよいならば、という条件で、市への出入りを許した。すると僧侶は待っていたとばかり、共に鴻臚寺に滞在する日本人を幾人も市に誘い出し、わが物顔で広い市を闊歩するようになった。
大唐への諸外国からの朝貢の使者は、おおむね四、五年に一度やってくる。だが日本からの使者は荒れ狂う大海を隔てていることもあって、原則、二十年に一度の到来と決まっている。このため学問を積むべく入唐した日本の留学生・留学僧は、次の船が来るまでの膨大な歳月を勉学に捧げねばならない。そんな彼らにとって、約二里(約一キロメートル)四方の敷地にさまざまな店舗が立ち並ぶ市は、さぞ楽しい息抜きの場だったのだろう。
あれはかれこれ十年以上昔、まだ少年だった晋卿が父を訪ねて市に出かけると、ほぼ必ずと言っていいほど、四、五人の異国人が酒家で飲んだくれていた。そのほとんどが夕刻になってもなお酒卓に突っ伏し、晋卿には理解できぬ異語で管(くだ)を巻く中、もっとも大柄な僧形の一人だけは、いつも途中で酒杯を投げ捨てて立ち上がり、よろめく足で酒家の向かいの書肆へと入って行った。そして店の者の迷惑顔にもお構いなしに積み上げられている書物をひっかきまわし、時には小脇に数本の巻子(かんす)を抱えて、よろよろと市門を出ていくのであった。
諸外国からの留学生・留学僧の中でも、特別に長期の滞在を強いられる日本の彼らは、勉学の途中で行方を晦ます者が多い。いつ来るか分からぬ郷里の船を待ちながら、ただただ異国で学問だけを続けねばならぬ境遇が、彼らに道を踏み外させるのだろう。晋卿が大きくなるにつれて、酒家にたむろしていた異国人たちは一人また一人と姿を消した。彼らの記憶も薄らぎかけた頃、長安城の南の城門・安化門の近くに集まる物乞いの中に、かつて酒家にいた男そっくりの者を見かけたこともあるが、本当にそれが当人だったかはよく分からない。
「陋巷(ろうこう)に身を隠し、物乞いに落ちぶれるなぞ、まだましな方でな。中には盗賊の群れに身を投じた末に捕らわれ、斬刑に処せられた者すらおるのだぞ」
と、父はいつぞや、小声で語っていた。
それだけに一昨年の夏、「存知よりの日本人僧が人手を欲している。おぬし、小遣い稼ぎにどうだ」との父の誘いに応じて鴻臚寺に出向いた時、十八歳の晋卿は目を疑った。かつてより四肢に肉はついたものの、あの酔っ払いの僧侶がうず高く積み上げられた経典の山の中に、四角四面な顔で座っていたからだ。
「拙僧は玄昉と申す。先月、長安に到着なさった日本の使節に従って、この年の暮れにも都を離れる。その際に持ち帰る書物の整理を手伝ってほしいのだ。よろしく頼むぞ」
聞けば玄昉は十余年前に長安を離れ、国内諸州を巡り歩いたのち雍州・竜興寺にて勉学を積んでいたという。長年の研鑽の結果だろう。いざ言葉を交わせば、玄昉は会話が巧みで、訛り一つない唐語で、時には冗談さえ交えながら的確な指示を出す。
晋卿はもともと内気な質。加えて、早くに連れ合いを亡くした父が後妻を迎え、そちらの腹に異母弟が生まれてからというもの、どうにも家に居場所がない。一日も早く仕事を探して家を出るか、一念発起して官吏の養成機関である太学への入学を目指すか。いずれにしても己の口は己で養わねばと考え始めていた矢先だけに、二十年近い研鑽の日々を終え、晴れて祖国に帰る玄昉の姿は眩しく見えた。
鴻臚寺のそこここでは、つい先日長安に着いた日本の使者と長年の留学を今まさに終えんとしている男たちが、賑やかに久闊(きゅうかつ)を叙し合っている。
「あそこで不機嫌そうな面で書物の整頓をしておるのは、わしと同じ船で来てこのたび共に帰る下道真備(しもちみちのまきび)。あちらで大使さまと典客署の役人との間で訳語を務めておるのは、こたびの船を見送って、引き続き長安に留まる阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)じゃ。――ああ、唐の者には、晁衡(ちょうこう)と申した方が分かりやすいのか」
晋卿は驚いて、玄昉と晁衡の顔を見比べた。
日本は五十年ほど前までは、倭という蔑称で呼ばれていた東夷。そんな辺境から、二十歳の若き留学生として入唐し、太学を経て、官吏の登用試験である科挙に及第した天才・晁衡の名は、長安では広く知られている。
しかも晁衡は唐人でも合格が難しい科挙を一度で突破したばかりか、皇帝・玄宗のお気に入りとして出世を果たし、現在は三十七歳の若さで皇帝の側近・左補闕(さはけつ)に任ぜられていると聞く。いわば今日の長安において、立身出世の権化として仰ぎ見られている男が、晁衡であった。
間近にすれば晁衡は猪首で、いささか猫背気味の姿勢とあいまって、およそ秀才然としたところが見つからない。そんな凡庸な風貌がかえって晋卿に、自分がただならぬ場に居合わせているのだと痛感させた。
目の前の男たちはこれから各々の使命に従って、あるいは国に戻り、あるいはこの長安で更なる研鑽を積もうとしている。そんな彼らが眩しければ眩しいほど、まだ何者でもない己が情けなくてならなかった。
そんな晋卿の内奥を敏感に感じ取ったのだろう。皇帝への謁見を済ませた使節がいよいよ長安を離れる前夜、玄昉は最後の荷を検めながら、「よかったらおぬし、揚州の湊まで付いて来るか」と、明朝の朝餉は何かと訊くようなさりげない口調で晋卿に言った。
「二年ほど滞在したことがあるが、揚州は実に面白い地だぞ。海が近いせいで、巨大な運河の流れる街辻を、潮風が朝夕を問わず吹きしきっていてな。港には大小の船がずらりと並び、紅の日輪が東海から昇る朝なぞは、まるで夢の如き美しさ。おぬしは生まれも育ちも長安だろう。見物に行くだけでも、損はないと思うがなあ」
そそのかすような物言いに、不審を覚えなかったわけではない。だが固辞するには、玄昉の弁舌はあまりに巧みであった。その前日、義母からまだ幼い弟の面倒を巡って𠮟責を喰らった苛立ちも、晋卿の背を強く押した。
大唐一の交易の地たる揚州には、長安に出店を持つ商人が大勢いる。帰路は必ずや身元の正しい商人に頼んで、晋卿を長安に送り届けると玄昉は請け合った。しかしいざ揚州にたどり着けば、沖に浮かぶ遣唐使船には高く帆が上がり、桟橋に山積みにされた荷を艀船がせっせと積み込んでいる。
「船出はしあさってだそうだ。どうせなら、それまでの間、我らが乗る船も見物してゆけ」
遣唐使は大使が乗り込む第一船、副使が乗り込む第二船、次官二人がそれぞれ乗り込む第三・第四船の合計四船で海を渡る。すでに船出間近とあって、それぞれの船の甲板では知乗船事(ちじょうせんじ・船長)と思しき赤銅色に日焼けした男が水子たちを塩辛声で𠮟り飛ばし、船匠が弟子たちと共に最後の確認とばかり、船内を走り回っていた。
そのけたたましさに度肝を抜かれた晋卿を他所に、玄昉はまっすぐ船底に向かった。船尾近く、菰に包まれた膨大な荷の隙間に腰を下ろし、「どうだ」と昼とは思えぬほど薄暗い船倉を晴れがましげに見回した。
「そちらの木箱の中身は、長安の内外で買い求めた諸仏の御像(みかた)。壁際の菰荷は諸州を経巡って集めた経論章疏(きょうろんしょうしょ)約五千巻。これほど多くの仏典仏具が一度に日本に請来された例はかつてない。無事にこの船が日本にたどり着けば、わが国の仏教は大きく変わるぞ」
「――お待ちなされ、玄昉。自慢を始めるのは、まだ早いですよ」
きいきいと鍋を磨くに似た声に振り返れば、骨と皮ばかりに瘦せた四十男が船梁につかえそうな丈長の身体を屈め、窮屈そうにこちらを見下ろしている。
「この船はまだ、湊すら出ておらぬのですよ。航海がうまく行ったとしても、大唐から日本までは約十日。その間に何が起きるかは、もはや我らの手の及ぶところではありません」
と、なぜか流暢な唐語で続けたのは、鴻臚寺やここまでの道中でたびたび姿を見かけた留学生・下道真備であった。
「なあに、心配はいらんぞ、真備。余人ならともかく、この船には拙僧が乗っているのだ。東海におわす龍王も、この船のためとあらば海を凪がせ、この身をつつがなく日本に帰り着かせるに相違ない」
「やれやれ、そのお気楽さの半分でもわたくしにありましたらねえ。あなたの肝の太さが、わたくしはつくづくうらやましいですよ」
「おぬしが集めた『唐礼(とうれい)』百巻を始めとする書物や種々の道具類も、どうせこの船に乗るのだろう。ならば仏神の御加護のおこぼれに、おぬしも与れる道理だ。心配はいらん」
玄昉はこの真備と心安いと見え、ここまでの道中も頻繁に軽口を浴びせ付けていた。
もっとも真備からすれば、万事、自慢たらしい玄昉の態度がいささか鼻に付くのだろう。
「百巻ではありません。わたくしが買い付けた『唐礼』は、全部で百三十巻です。勘違いしないでいただきたい」
と生真面目な口調で訂正して、晋卿にちらりと目を走らせた。
「それにしても、そちらの若者は唐人でしょう。異国の者を勝手に船に乗せたりして、大使さまに𠮟られても知りませんよ」
「ふん、また小言か。拙僧が無事にこれらの経典を請来できるのも、この晋卿の働きあればこそだ。その恩義に報いんとして何が悪い」
「まあ、こたびの帰国の船には、いつになく外国の衆が多いですから。ご出家であれば、大福先寺にお住まいだった道璿(どうせん)さま、婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)さまに林邑僧の仏哲さま。阿倍仲麻呂さまの従者であった羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)は唐の女に生ませた息子二人を連れてこの船に乗り込むそうですし、第二船には遣唐副使さまがぜひにと見込んで連れ帰られる姉弟の楽師(音楽奏者)もいるとか」
万一、見咎められたら、そのいずれかの従者だとでも言い訳するのですね、と言い置いて、真備が踵を返す。まるで板を差し込んだかの如くまっすぐな背を見つめ、「そんなに大勢が」と晋卿は思った。
日本が大唐の学問の摂取に熱心とは、玄昉の挙動からだけでも推測できた。ただ留学生・留学僧に勉学を命じ、多くの書物を集めさせるだけでは飽き足らず、唐人の僧侶や楽師たちを生きた知識そのものとして連れ帰るとは。
日本とはどんな国なのだ。その都城や法典が大唐のそれを引き写して拵えられているのは、話に聞いている。ならばかの地に暮らす人々はどのような衣服をまとい、どんなものを食べているのだ。
(――見たい)
青年らしい単純な疑問は、胸底に湧いた途端、己でも驚くほど激しい渇望へと変わった。
まるでそんな晋卿の胸裏を汲んだかのように、玄昉が胡坐をかいた膝を小さく揺すった。
「わが国では、本邦に来た民にはちゃんと食糧を与え、当人が望むのであれば寛(くつろ)かなる地に住まわせよとの法令があってなあ」
と、ひとりごちる口調で続けた。
「これは大唐の法令を引き写したものらしいが、だからといって一度、日本に来た者は決して故国に帰ってはならぬという意味ではない。日本で名籍(戸籍)を賜ってもなお、帰りたければいつでも大唐に帰っていい。唐人の御坊衆や羽栗吉麻呂の倅どもも、そう分かっていればこそ気軽に船に乗り込むのだろうな」
「帰りたければ、いつでも――」
「おお、そうとも。何ならおぬしもこのまま、共に来るか。わが国の西、大唐にもほど近い筑紫国(現在の福岡県)には那ノ津(博多)という本邦一の大湊がある。そこには唐や新羅の商人が出店を構え、ひんぱんな行き来をしているゆえ、奴らの船に乗り込めば、いつでも長安には戻れるだろうよ」
このままこの船に乗り込み、何千里もの海山を隔てた異国に渡る。それはあまりに途方もないがゆえに、どこか現(うつつ)とは思えぬ甘美な誘いであった。
思えば晋卿には、長安で特にやるべきことはない。義母は異母弟が生まれて以来、あからさまに自分を邪魔にしているし、父もまたそんな妻と晋卿双方の顔色をいつもおろおろとうかがっている。
見事、太学に入学が叶えば、寮での生活を始められるが、今の晋卿の学力ではそもそも合格できるかがまず怪しい。ならばいっそ日本とやらに渡り、かの国で見聞を広めて来れば――そうすれば帰国後はかの晁衡の如く、異国好きの皇帝のもとで出仕が叶うかもしれない。
「本当に……いつでも帰れるのですね」
語尾がわずかに震えたのは、満々たる大海を渡る恐怖ゆえではない。
自分の前にはいま、思いもよらなかった未来が延べられようとしている。こんな途方もない機会を手放しては、必ずや後悔する。かっと火照った頭の中で、まだ見ぬ日本の地がうっすらと形を成し始めていた。
「おお、帰れるとも。先ほども聞いていただろうが。拙僧さえ共におれば、東海龍王は必ずや海原を鏡の如く凪がせ、風伯(風神)は船帆いっぱいに順風を送って、この船を瞬くうちに日本の湊に送り届けるはずだ」
玄昉の言葉をすべて信じたわけではない。だが自信たっぷりに胸を張るこの僧侶であれば、という都合のいい期待が晋卿を励ましたのも事実であった。
(ためし読みここまで)
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異邦人×浮浪児
八世紀の奈良、欲望渦巻く平城京に投げ出された異邦人と浮浪者たち――。
国家の秘事に巻き込まれて唐から来朝し、不安と孤独な生活を強いられた袁晋卿(えんしんけい)は、浮浪児と出会い、心を通わせていく。
争いの渦の中でもがき生きる彼らの姿を稀代の作家が精緻な筆致で描く、衝撃のデビュー作『孤鷹の天』へと続く物語。
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作家
澤田 瞳子(さわだ・とうこ)
1977年、京都府生まれ。同志社大学大学院博士前期課程修了。2010年『孤鷹の天』でデビュー。同作で中山義秀文学賞を受賞。13年『満つる月の如し 仏師・定朝』で新田次郎文学賞、16年『若冲』で親鸞賞、20年『駆け入りの寺』で舟橋聖一文学賞、21年『星落ちて、なお』で直木賞を受賞。他の著書に『火定』『名残の花』『輝山』『恋ふらむ鳥は』『のち更に咲く』『赫夜』『孤城 春たり』『しらゆきの果て』『京都の歩き方-歴史小説家50の視点』など多数。